「川の街」広島―史実を歩く

広島デルタ中心街に注ぎ込む太田川の基町環境護岸で”Hiroshima Bossa Open Cafe” が開かれる。南米ブラジルの調べボサノバを楽しみ、シュラスコ料理やコーヒーを味わい、語り合う。「川の街」を彩る市民有志の新たな催しを前に、基町護岸やその一帯をあらためて見つめ歩いてみたい。被爆地ヒロシマで忘れられかけている史実が潜み、息づいてもいるからだ。

<開基の地>

▲原爆被爆直前の基町。米軍1945年7月25日撮影の航空写真(米国立公文書所蔵)に軍施設名を原爆資料館で入れた。
左下隅が投下照準点となった相生橋
 広島市が建設を計画するサッカースタジアムの予定地である中区基町の中央公園広場で今夏、旧陸軍の遺構が市の発掘調査から見つかった。「輜重(しちょう)兵補充隊」(通称号は中国139部隊)の跡だ。輸送を任務とする部隊が、「あの日」朝まで太田川(本川)左岸に構えていた。市は9月4日、厩舎(きゅうしゃ)の石畳などを切り取る部分保存への作業を始めたが、原爆被爆前の広島が「軍都」だった証しだと遺構の全面保存を求める声も上がっている。
さかのぼれば、広島城が立つ基町の名称は「広島開基の地」にちなむ。市制施行より2年早い1887(明治20)年に名付けられ、日本・広島の近代化とともに軍の施設が次々とつくられた。全国が6軍管区に分けられた73年に第5軍管区広島鎮台が置かれ、86年に第5師団と名称変更。94年に日清戦争が始まると師団司令部は大本営となり、明治天皇が入った。さらに臨時帝国議会の仮議事堂が西練兵場に開設された。現在の市水道局基町庁舎辺りである。この年の山陽線延開通と宇品港完成で広島は以降、日本の派兵拠点となる。
城南側に広がる西練兵場は市民には憩いの場でもあった。1929(昭和4)年、牛田村(現・東区)など近隣7町村との合併を記念した「昭和産業博覧会」が55日間にわたって開かれた。毎年の「広島招魂祭」では競馬やオートレースも実施された。広島出身のカナダ移民が一時帰郷した27~28年に撮った16ミリフィルムが残り、招魂祭のにぎわい、太田川の支流である元安川左岸に立つ県立商品陳列所(現・原爆ドーム)の威容を見ることができる。デジタル化映像がカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州で健在の子息から原爆資料館に寄贈されている。

 

▲在りし日の広島デルタ 元安川(手前)と本川に囲まれた中島本町にあった「カフェー・ブラジル」の外観(奥)も写る。
北端の木げた、旧相生橋が取り除かれる1938年、「廣島寫眞館」主の松本若次さんが撮影
 本川と元安川に囲まれる平和記念公園がある中島町は、かつて「中島本町」と呼ばれた。明治期の1882年に集散場ができ、10年後には観商場と、広島の商業・文化の中心地となる。初の常設映画館「世界館」も1910年に開館した。大正期に入ると本店が神戸の西洋食堂「カフェー・ブラジル」が出店。白いユニフォーム姿のボーイが、コーヒー1杯の客にも扱いは変えず評判を呼んだという(薄田太郎『続がんす横丁』)。公園内を今も貫く旧山陽道「中島本通り」は、スズラン灯が夜をほんのりと染めた。日本髪の女性が給仕する料亭、旅館、ビリヤード場などが、中島本通りから中島北端の相生橋方面へと続いていた。
本川と元安川に架かる相生橋は、1912(大正元)年に路面電車の専用橋が設けられ、1934(昭和9)年には中島北端の慈仙寺鼻へ橋げたが延び、今日にもみられるユニークなT字型となる。「水の都」とも称された広島の景観を象徴する相生橋はしかし、米軍による原爆投下の照準点となる。
1945年8月6日、基町や中島本町をはじめ広島デルタは壊滅した。

<「復興」の光と影>

 原爆後の基町は、人間が街ごと消し去られた広島の「復興」拠点となった。国の旧軍用地が廃虚に広がっていた。

 

▲壊滅直後のデルタ中心街
旧文部省原爆災害調査団に同行した写真家、林重男さんが1945年10月5日、旧広島商工会議所(4階)屋上から撮影。
ネガフィルムは林さん(2002年死去)が生前に資料館へ託した
 市は1946年策定の復興計画で基町の西側大半を公園用地とするが、実際は住宅建設を迫られた。原爆で身一つになった人たち、復員や外地からの引き揚げ、市内への転入増から、住居が圧倒的に不足した。住宅営団は屋根はあっても天井がない「セット住宅」を、市は「十軒長屋」と呼ばれた住宅を旧軍用地に建てていく。翌47年には市復興局の現場機関である東部復興事務所を開設。西隣には県の広島復興事務所があった。現在の広島中郵便局付近に当たる。
さらに基町には「原爆の子どもたちに夢を」と1948年5月3日に児童文化会館ができ(50年から市が運営)、52年12月に市児童図書館が開館する。前者は教師らが建設費を募り、後者は戦前に全国最多の移民を送り出した広島県ゆかりの在米日系人らが資金を寄せた。原爆資料館の前身である「原爆参考資料陳列室」は基町の中央公民館一室で49年に開設される。50年の広島カープ結成から懸案だった専用球場の建設費は地元財界からの寄付で賄い、念願の市民球場は57年、児童文化会館の東南に完成した。
初代公選市長に就き復興を率いた浜井信三が「打ち手の小づち」と後に評した国の特別立法「広島平和記念都市建設法」の49年公布で、平和記念公園や、デルタを東西に幅員100メートルで貫く平和大通りの建設も本格化していった。
被爆都市も高度経済成長の波に乗ると、大手企業の支店ラッシュが続いた。最初の東京オリンピックが開催された1964年、市人口は50万人台に。うち8割が「非被爆者」だった。ひずみや矛盾が深まっていた。65年の原爆医療法改正では「被爆者の住宅総合対策の確立」が付帯決議されたほどだ。
「広島市の地図を開くと、市の中心部に空白のまま残された場所がある/その河岸地帯は、通称相生通りと呼ばれ、」。広島の作家、文沢隆一の「相生通り」(65年発行の岩波新書・山代巴編『この世界の片隅で』収録)は、傷跡が心身に続く人や朝鮮半島出身者の悲痛な声、たくましく生きる姿を通じて、地元でも顧みられことが少なかった実態をルポルタージュした。近年では2003年、漫画家こうの史代が『夕凪の街』で被爆10年後の「相生通り」に住む独身女性の思いをみずみずしい筆致で描き、話題となったのは記憶に新しい。

 

▲1974年3月の「相生通り」。大段徳市さん撮影。太田川(本川)左岸土手沿いには老朽化もした住居が続いていた。
奥は建設中の基町高層アパート(広島市文化振興課提供)
 高度成長が続いても、相生橋東詰めから上流の三篠橋東詰めまで約1.5キロに及ぶ太田川左岸の土手筋・河岸には不法住宅が密集した。道幅は狭く火の手が上がると大火災になった。大阪市立大研究者が基町の不法住宅の892世帯・3015人を対象として68年にまとめた調査によると、被爆世帯は35.1%、職業は日給が50%近くで無職が20%、老人と孫だけの世帯は13%もみた。
国が基町西側一帯を改良地区に指定した再開発事業は1969年にスタートする。地区内の2600戸をすべて除去して、最高20階の高層アパート群を建設していった。北側の長寿園地区の高層住宅を含めると計4566戸となり、ショッピングセンターや集会所も造られた。「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」。78年の再開発事業の終了を受けて、この言葉を刻んだ記念碑が広島城跡の南緑地帯で除幕された。翌79年には相生橋から上約880㍍の護岸整備が始まり、84年に「基町環境護岸」として完成。散策や憩いの場となっている。
今、広島市は再び基町地区の再整備に乗り出す。サッカースタジアムが完成予定の2024年開業を目指して、レストランやアウトドアなども楽しめるエリアを周辺に設ける。中央公園にある中央図書館など市有7施設は、来年以降に可能な施設から集約や移転を図る方向性も示した。
被爆地ヒロシマの歩みを刻み、変貌する都市としての姿をも映し出すのが、基町だ。記憶を受け継ぐ担い手である市民のまなざしや歴史観も問われている。

<広島とブラジル>

 ブラジル日本移民は1908(明治41)年6月18日、大西洋に面するサントス港への「笠戸丸」接岸に始まる。広島県からの42人を含め781人が乗っていた。この年2月の日米両政府の「紳士協約」で、米国への移民は再渡航や家族呼び寄せを除き禁止となった。
「ハワイに2、3年おった人がもうけて帰った。それで私らも。しかしブラジルはそういう理屈にはゆきませんで…」
結婚間もない18歳で夫と広島から応じた、臼井マサヨは100歳だった91年、「笠戸丸」下船からの日々を筆者にそう述懐した。コーヒー農園での契約労働。朝晩は陸稲に湯をぶっかけ、夕食は麦だんご。監視も厳しい作業が続いた。ポルトガル語を覚えるため家庭奉公に転じ、洗礼を受けた。夫や子どもらと落ち着いた暮らしを手にするまでには20年近い歳月がたっていた。
広島はハワイ・米国本土をはじめとして全国最多の「移民送出県」でもあった。南米ブラジルには大半が家族ぐるみで渡る。県が海外移住組合を設立した2年後の1929(昭和4)年には年間1336人を数えた。
1941年の日米開戦でブラジルは国交を断絶。約18万人に上った日本移民は母国の情報から切り離され、大戦終結後も日本の「勝ち負け」を巡り混乱が続いた。
戦後の移民再開は、日本が国際社会に復帰した講和条約調印の翌52年。広島県知事の大原博夫は56年にサンパウロとパラナ州を2カ月にわたって回り、「母県の窮状打開」を訴え、農村部の2男・3男や戦災・原爆孤児の呼び寄せを求めた。有力者らは50年に「原爆孤児救済会」をつくって広島の8施設へ物資を贈っていた。戦後移民も増えた広島ゆかりの人たちは「4663家族を確認し、今日約5500家族と推定されている」(現地で67年に編まれた『ブラジル広島県人発展史並びに県人名簿』)までになった。
ブラジルで「ヒロシマ」の認知度は高い。ボサノバの名曲「イパネマの娘」の作詞者ヴイニシウス・デ・モラエスが、軍事政権下の1973年に発表した「ヒロシマのバラ」という曲もよく知られている。反戦ソングとして若い世代に支持された。サンパウロ市内には「ヒロシマ」を冠した州立学校があり、毎年「8月6日」には市民による灯ろう流しも行われている。
翻って日本はどうだろうか。政府は、バブル経済に沸き製造現場で人手不足が続いた1990年の入管法改正で、日系2・3世に就労制限のない「定住ビザ」を認めた。広島県内では西日本最多となる日系人が移り住み、自動車部品工場などで働く。子どもらは地域の学校へ通うようにもなった。「南米からの隣人」がさまざまな壁にぶつかっても、社会の関心が高かったとは言えないだろう。

 

 市文化交流会館そば中区加古町の本川左岸緑地帯には、「祈平和BRASIL」と黒みかげ石に刻まれた碑が立つ。碑前の銘板には「ヒロシマの悲劇を繰り返さないという決意と世界の平和恒久子平和への願いをこめて…」とある。広島県人会が建立を呼び掛け、ブラジルの小学生から高齢者まで約5000人が募金を寄せて90年に建立された。デルタ河岸を散策して、ぜひ確かめてほしい。
(本文敬称略)

 

▲ブラジルからの平和祈念碑。
西平和大橋東詰めから下流に100メートルあまり、本川左岸緑地帯に立つ。
黒みかげ石はブラジルの国土をかたどった

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西本雅実
1956年広島市生まれ。中国新聞記者を41年間務め2021年退職。共著に『移民』『検証ヒロシマ』や、市発行の『広島市被爆70年史』など。
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